「8月6日 広島原爆の日」
世界で初めて原爆が広島に投下されてから80年。
平和記念式典が朝から開かれて、テレビで流される一日。
今年も、利用者さん達と一緒に黙とうをしました。
僕はこの機会に、利用者さんから当時のお話を聴くことを行っています。
当時のことを覚えている方は、85歳以上の利用者さん。当時5歳以上だった方です。
とくに90歳前後の方は当時10歳前後だから、戦時下のことを鮮明に記憶されています。
しかし、戦争体験者の多くの方達は、自分の子供にも当時の話をあまり伝えずにきた。
「悲惨な話を子供には聞かせたくなかった」「戦争への国民の複雑な思い」
などの語りづらい心情が、多くの人にあったのではないかと感じます。
全国の戦争体験者は今年10万人を割りました。もう10年もすると語り継げる人は、ほんのわずかしか居なくなってしまいます。
だから、僕は人生の大先輩である利用者さんのお話を積極的に聴くことにしているのです。
「ちゃんと受け継いでいきたい」
被爆地の広島県人として、戦争と核の怖ろしさをしっかりと知っておきたいのです。
僕は生涯独身で語り継げる自分の子供は居ませんが、ブログなどで少しづつでも当時のことを語り継いでいけたらと思っています。
数名の利用者さんからお聴きした戦時下・被爆時のお話などを、綴ってまいります。
【当時10歳だったUさん(女性)のお話】
五日市に住んでいたが、被爆時は県北東部の世羅町に疎開に出されていた。
「世羅からはキノコ雲は見えなかった。私は無事だったけど」
「でも、お母さんが広島に建物疎開に行ってたから、死んだの」
と、寂しそうに語られました。
10歳で愛する母を亡くしたUさんの心情を鑑みると、それから長らく「寂しく悲しい想い」を抱えて生きてきたことが伺えます。
※建物疎開とは
空襲により火災が周辺に広がるのを防ぐために、あらかじめ建物を取り壊して防火地帯を作ること。広島市では平和大通り一帯を中心に大規模な建物疎開作業が行われていた。人手が足りず、市民のみならず多くの中高生も作業に駆り出された。被爆の瞬間、市街の屋外で作業を行っていたために多くの犠牲者を生むこととなった。
【当時9歳だったSさん(女性)のお話】
呉に住んでいたけど、被爆時は愛媛県の今治に疎開していた。
「防空壕によく泊まった。辛くて泣いてお母さんに怒られたわ」
「戦争が終わって呉に帰ったが、家は無くなっていたのよ」
その後の詳しいお話はまだ聞けていないのですが、きっと戦後も苦労されてきたことが想像できます。
【当時9歳だったTさん(女性)のお話】
東広島市志和町育ち。小学生で夏休みだったけど、西の空に大きな黒いきのこ雲が見えて大騒ぎになった。夏休みだけど、みんな学校に集まって待機したそうです。
「志和から広島に働きに行ってた人は多かったわ。被爆した人達が沢山、志和に送り届けられてきた。酷い状態の人を沢山観たのよ」
爆心地から距離のある志和は比較的安全な場所として、負傷した被爆者の救護・収容所が設けられました。志和は鉄道駅がないため10㎞以上離れた近隣の駅からリヤカーなどで被爆者が輸送されてきたそうです。
広島市から北東に繋がる芸備線は臨時列車を何本も出し、三次市や庄原市などにも救護所を設けて被爆者を多く受け入れたそうです。
【当時8歳だったJさん(女性)のお話】
三原の駅前に住んでいたJさん。
「三原からも黒い雲が見えたよ。びっくりしたよ」
「列車で沢山の負傷者が送られてきたの。水をくれ、水をくれってあちこちで叫んでいたのを覚えているわ」
広島から約70㎞離れた三原でも、キノコ雲が見えたという話に僕も驚きました。
キノコ雲の巨大さ、原爆の恐ろしさを物語る証拠の一つと言えるそうです。
【当時20歳、現100歳のKさん(女性)のお話】
「兵隊さんが戦地で頑張っているのだからと、貧しくてもみんな不満など言えんかったのよ」
旦那さんが戦死されたKさん。遺族年金を受けてきたことに複雑な思いをずっと抱いています。
「私はね、お金を貰うのが申し訳ないんよ」
何度かその言葉を聞いてきました。そんな償いの思いからかKさんは、無償の地域貢献などをいくつも頑張られてこられたのです。
このようなお話を今回お聞きしました。
広島市内で直に被爆したという方はうちのデイには居られませんが、お話からは充分に戦時下のことが伝わってきました。
辛く、痛ましい体験をされてきた利用者さん。
貴重なお話を聴かせてくれたことに、深い感謝の念に堪えません。
現代と違い、情報がうまくは伝わらなかった戦後の時代。
原爆というものへの理解は乏しく、誤解や偏見から、被爆者を避けたり差別の助長を多く生んでしまったのです。
重く悲しい時代が続いたのです。
そのような状況においては、戦争を語ろうとしない、押し黙る人が大半になっていったのは自然なことだったのでしょう。
やっと現代になって「次世代へ語り継ごう」と言われ始めてきたのです。
ロシアとウクライナ、イスラエルとガザ、イラン
世界は今も戦争が絶えません。そして、核保有を肯定する国々。
核の怖ろしさを知る、唯一の被爆国である日本は、世界の先頭に立って核廃絶を訴えるべきなのに、アメリカに物言えないままに「核の傘」に守られようとする…
なんと意志の弱い国なのでしょうか?
政府のかじ取りの大変さ。想像を絶するくらい難しいことは分かります。
政府に任せきりできた国民にも、重い責任があると思います。
そして自分は被爆地の広島県人として、
「核の怖ろしさを語り継ぐ責任」
「平和を強く訴える責任」
を持ち続けたい。そう感じている今日この頃です。


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