介護保険25年目の岐路(前編)

お役立ち情報

NHKEテレの4月21・22日放送「福祉をつなぐ」

『介護保険25年目の岐路』を視聴しました。

個人的に非常に勉強になり、考えさせられることが多かったので、

自分なりに記事にまとめ、ご覧になられていない方に向けてお伝えすることにします。

わが国の介護の歴史と、進む超高齢化、現在の介護危機。

どのように推移してきたのかを、できるだけ分かりやすくお伝えしようと思いますので、

ぜひご参考にして頂ければ幸いです。

 

今回は第一夜(前編)より

介護保険制度がスタートしたのは2000年4月。今より25年前。

まずは、その歴史を追っていきます。

戦前の貧しい庶民生活では、高齢者のお世話は家族が行うのが当たり前の時代。

戦後の高度経済成長期を通じ、徐々に福祉制度が整備されていきます。

【1970年の高齢化率が7.1%に】

(国連が定めた高齢化社会の基準は、65歳以上人口が総人口の7%以上)

ここから日本は、本格的な高齢化社会に突入していきます。

そのうちの約20万人の高齢者が寝たきり生活であったという。

昭和当時のNHK番組「明るい農村」にて

『孝行嫁さんを自治体が表彰』

…全国1000以上の自治体でこのような表彰が行われていた。

献身的に義父母のお世話を頑張るお嫁さんを「良い嫁」ともてはやす風潮も、

実は、家族は「大変な介護は、嫁に押しつけた」

そんな痛ましい時代が長く続いていたと思われます。

「子供が親の面倒をみる」が当時の社会通念。

なかでも長男の嫁がお世話をするのが当たり前の時代であった。

インタビューでの

「わたしの仕事とあきらめとりますから」というお嫁さんの声。

しかし、多くの彼女たちの本心は

「介護に全生活を捧げなきゃいけない」辛い気持ちがみんなにあった

そのひずみが次第に明らかになっていくのです。

「介護は嫁がするもの」という考え方は、現代社会では古い考え方であり、法律上は親の介護義務は原則としてありません。親の介護義務は、直系血族である子や孫、兄弟姉妹が負うもので、嫁には義理の親の介護義務は生じないのが原則です。
ただし、夫婦には互いに協力し扶助し合う義務があります。夫が親の介護で困っている場合、妻はそれを手伝う必要も考えられます。
介護の知識として上記の点を、僕たち介護従事者はしっかりと認識しておきましょう。

 

1973年は『福祉元年』と呼ばれています。

この年に「老人医療費の一律無償化」が導入。

ほかにも、年金水準の大幅引き上げなど様々な福祉の充実が図られた年です。

しかし、当時は認知症への理解が乏しい時代であり、認知症高齢者の介護は家族には困難なので病院に入院させる。福祉の対象ではなく医療の対象とみなされていたのです。

治療が必要ない人を入院させるような「社会的入院」と揶揄されるほど入院患者が増加し、病院側は管理がひっ迫、当時は「動き回らないようにベッドに括り付ける、部屋に鍵をかけるという身体拘束」や「薬漬け」などが社会問題になり、病院が悪者にされる批判が広がったようです。

そして、国の「医療費膨張」という新たな問題も生まれていくことになります。

 

1980年の高齢化率は9.1%、1995年は14.5%と、

非常に速いスピードでわが国の高齢化はすすんでいきました

介護保険制度ができる2000年より以前の日本の社会福祉制度は、

行政が一方的にサービスを決定する『措置制度』で、利用者に選択権がありませんでした

また、措置制度の対象者は低所得者のみであり、中間層以上の家庭は利用できず、

ほとんどの家庭で「家族による在宅介護」を余儀なくされていたのです。

当時の家庭は

「お上の世話にはならない。申し訳ないし、恥ずかしい」

という社会通念があり、ほとんどの家庭が在宅介護。

当時はまだ、介護の正しい知識が伝わっていなかった時代であり、

次第に「高齢者虐待・身体拘束」や「介護側のストレス」の問題が増えていき、

『介護地獄』いう言葉まで生まれた時代です。

 

1994年、ようやく国が

「公的な介護サービスをつくろう」と本格的な議論を始めます

「介護の社会化」を目指す動きが起きますが、一部の政治家からは

「親不孝者を生む」「家族の美風を損ねる」などの批判が起きて、

計画はなかなか順調にはすすんでいかなかったようです。

 

そしてその時、政治を動かしたのは「国民の力」だったのです!

『社会全体で介護を支えていこう』

この「介護の社会化」を求める庶民の声が世の中に広がっていき、「1万人市民委員会」が創設されるなど市民運動が沸き起こり、

ついに国民の声が、政治を動かしていったのです。

何度も議論が繰り広げられ、その形を決めるまで付与曲折を繰り返しながら、

ついに2000年4月「介護保険法」が施行されました。

「社会全体で介護を支えていく」

「利用者みずからがサービスを選んで利用できる」

理想的で躍進的な制度として、華々しく生まれたのです。

 

また、この時代の介護事業の動きは目覚ましい拡大路線が続きます。

老人ホームや介護施設が次々と設立されました

『高齢者ブーム』到来と叫ばれた時代です。

来る高齢化社会を見越して民間事業者も続々と参入し、介護施設は雨後のタケノコのごとく増え続けてきたのです。

同時に、国は介護人材の育成促進を進めていきます。

「いい人材をたくさん育てていこう!」と。

1990年は「質の高い介護人材を育てよう」の取組み

1991年「ホームヘルパーの養成(ゴールドプラン)」

ゴールドプラン…1989年(平成元年)策定された、高齢化社会に対する国の指針

高齢者施設の建設目標数や介護職員の必要人数などの具体的な目標数値が設定された。

1992年「介護労働者法」制定

このように、介護従事者の労働環境を整える動きがすすんでいったのです。

2000年前後「ヘルパー研修(のちの初任者研修)」は大人気で受講は3倍率で抽選式。

当時は賃金も良く、主婦層を中心になんと、ホームヘルパーは『人気職』だったそうです。

 

ところがです…

介護保険がスタートし、盛り上がったのもつかの間、

2001年には、社会保障費抑制に政府が動き出します

当時は自民党小泉政権時代ですが、

早くも2003年、なんと「介護報酬2.3%引き下げ」のマイナス改定を政府が決定

国民や利用者が求める「介護サービスの質向上に逆行する」という声も通じなかったのです。

この状況は、国の『介護の在宅重視』の姿勢によるものであり、

「施設への報酬を4%引き下げ」

「訪問介護の報酬は2.3%引き上げ」

介護報酬全体では2.3%のマイナス改定となった形です。

そして、2006年頃は『介護人材が逃げていく』

そんな流れがすすんでいくのです

政府の介護報酬マイナス改定に、さらに追い打ちをかけたのは、

「NPO法人の若者の介護職の実態をセンセーショナルに取り上げたNHK報道」であった。

(今回の番組では、この部分は放映されておりません。著者が独自で探した情報を載せております)

その実態は「小規模介護事業での不適切な経営・雇用」そんな報道だったが、

一般の人々に与えた影響は大きく、高校教諭や保護者が介護分野への就学・就職に反対するようになったのもこの頃からです。

介護分野への新卒の就職希望者は減少し、介護労働市場は一気に売り手市場に転じていったのです。

その後こうした状況が表面化しだしてから国は、介護人材確保に着手せざるをえなくなるのだが、

介護報酬の増額・介護職員の処遇改善などをちょこちょこと実施するも効果は少なく、

現在に至るまで、介護人材確保の困難な状況を迎えており、

事業所も国も、危機感が高まってきたのです。

 

昨年2024年、介護事業所の倒産数は784件。

過去最多です

784件の内、訪問介護事業所の倒産数は529件。7割近くを占めます。

その大きな原因は、

①訪問介護のマイナス改定、②ヘルパーの高齢化

の問題があげられています。

「厚生省の愚策」と非難を浴びている昨年度の「訪問介護マイナス改定」が、全国の訪問介護事業所を苦境に追い込んでいるのが問題の一つですが、もう一つの重大な問題は、

「ヘルパーの高齢化」=「成り手不足」です。

番組で取材された地方の訪問事業所では

ヘルパー20人中、8人が70歳以上と驚くべき実態。

先に示した1990年代の「ヘルパーが人気職」時代に就職した主婦達は、今70歳を迎える年齢になってきているわけです。

この方達が数年後にリタイアしていくと、どうなってしまうのか?

次世代ヘルパーの参入はすすむのでしょうか?

経営難で不安な勤め先を選ぶ若者が、果たして居るでしょうか?

はっきり言って、非常に厳しいと言わざるを得ないでしょう。

多くの訪問介護事業が

「経営苦境」「人材不足」が深刻。

このままでは訪問介護事業は崩壊しかねない、

危機的状況なのです。

 

そして、わが国の高齢化がさらに進んでいくにつれて、

介護事業は「人手不足」の問題だけではなく、

膨張する介護保険費用への「財源不足」問題が明確化してきました。

わが国の介護保険制度の持続可能性を問われる

成人期」を迎えているのです。


次回の後編は

『どうする?介護の未来』

をお伝えします。

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