被爆者差別を知る

1945年8月6日広島・9日長崎への原爆投下。

その被害は、単に市街地の大被災だけにとどまりませんでした。

被爆者をその後も、苦しませ続けたものとは?

 

一つは、放射能による後遺症

後になるほどに、様々な障害があらわれてきたという。

放射能の真の恐しさ「悪魔性」を発揮してくる。

一生追いかけてくると言われるものです。

放射能の被害は終わらない。将来に続いていくこと。

被害者の苦悩は後々まで続いたことを忘れてはならないのです

 

そして私達が重く受け止めなければならないこと、それが

「被爆者の心の被害」です

想像を超えるほどの苦しみ・悲しみを、被爆者は抱え続けたのです。

それをつくったのが、被爆者に向けられた「偏見」「差別」

被爆者の心を深く傷つけた、最も恐ろしいものです。

その実態を知るほどに、

人間の「悪魔の心の存在」を思い知らされます。

原爆や放射能に関する人々の無知・無理解が、

被害者に対する誤解や恐怖心を生み、差別を助長する要因となりました。

真実とは全くかけ離れた嘘や噂が、人から人へと伝えられていった。

「原爆症はうつる」といった偏見が拡がります。

被爆者のケロイドを観る者が、遠ざかったり、後ろ指を指したり、

「腐れ足」「赤鬼」「ピカドン」などの差別語を浴びせたり

酷いイジメや、暴力までも起きていったのです。

結婚や就職の際に「出身地が分かっただけで断られる」

そんな差別はずっと残り続けたと言われています。

また被爆二世も、遺伝的な影響の懸念から偏見の対象となりました。

「ピカドンの子」と遊び仲間からはじかれたり、縁談を断られたという数々の証言があります。

被爆体験を語ること自体が、周囲からの偏見や差別をまねく恐れがあるため、

多くの被爆者が沈黙を強いられていたのです。

「被害はずっと終わらない。将来に続いていく」

被爆者の苦悩がずっと続いたことを忘れてはなりません。


昨年、ノーベル平和賞を受賞した「日本被団協」

そのメンバーの方が語られたお話を参考とするべく、いくつか伝えさせて貰います。

 

【坪井 直】さん(故人。元被団協代表)

広島県出身。20歳の時に被爆。全身に重いヤケドを負い、40日間意識不明に。

その後、中学校の教師となってからは原爆の恐ろしさを語り続け、生徒からは「ピカドン先生」と呼ばれた。

「ネバーギブアップ」の精神で、世界各地で核兵器廃絶と平和を訴え続けた。

アメリカ元オバマ大統領が広島を訪問した際には、握手を交わしている。

(坪井さんのお話)

「被爆者は短命」と噂が広がり、結婚を反対された。亡き妻「鈴子」さんと二人で睡眠薬で心中を図ったが二人とも死ねなかった。

バスに乗っても隅におった。真ん中に乗ってたら見かけた子供から「赤鬼がおるよ。うつるよ」と騒がれた。

坪井さんが被爆体験を語る中で、差別や偏見について話が及んだ際、いつもは優しい笑顔の先生が、一度だけ怒ったように

「ええか、お前ら。差別はいけん。偏見はいけん」

と強い言葉で語ったそうです。

坪井さんの活動は、被爆者の権利擁護だけでなく、差別のない社会の実現にも貢献したのです。

彼の言葉は、差別に苦しむ人々に勇気を与え、差別のない社会を築くための原動力となりました

【小峰 秀孝】さん (故人。長崎原爆青年乙女の会 元会長)

長崎県出身。4歳の時に被爆。ヤケドで右足が変形。

小学生時は「腐れ足」とあだ名をつけられ、壮絶なイジメや差別を受けた。

先生までもが、真直ぐ歩けない小峰さんを「ガネ(カニ)」とからかったという。

「被爆はうつっとげな」という噂が起きてからは、伝染病扱いされてしまう。

よく声をかけてくれてた近所のおばさんまでが、うつると聞くと手の平を返したように、畦道で会っても道から体を外に出して私が通り過ぎるのを待つような状態だった。

中学卒業後に被爆を理由に就職を断られた。技術を身につけて理髪師となる。

その後、修学旅行生などに差別の実相を伝え継ぐ、語り部を続けられました。

後に、長崎被団協の副会長となられています。

ノーベル賞受賞を聞き「良かった」と喜ばれたのですが、12月授賞式の数日前に息をひきとられました。

【阿部 静子】さん (98歳 被団協結成に関わられた)
広島県出身。18歳時に被爆。爆心地から1.5キロの平塚町で建物疎開の作業中、爆風で吹き飛ばされた。顔や右半身に大ヤケドを負った。
顔にはヤケドの痕が残り、戦後復員した夫の三郎さんにご両親が「別れてやって下さい」と頼み込んだが、三郎さんは「離婚できない」と答え、その後も静子さんに寄り添い続けた。
真っ赤でニホンザルのような顔だったと語られる。外出すれば近所の青年たちに「赤鬼」と心ない言葉を投げかけられた。「死にたい」と何度も思ったと。うつむいて人と会わないように、傷が見られないように隠れて暮らす毎日だったという。
被爆から10年後、ある大事件が起きて、流れが変わり始める。
「第五福竜丸」事件です
1954年3月にアメリカが行ったビキニ環礁の水爆実験により、静岡県のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23名が被爆した事件。
この事件をきっかけに、日本各地で核兵器廃絶を求める運動が広がりました。
1955年8月、広島で「第一回原水爆禁止世界大会」が開催される。
この大会に阿部さんは参加されています。
当時の池田勇人首相(広島県出身)に、被爆者援護を訴えると
「日本はアメリカに弱いからね」と小声で応えたそう。
(第五福竜丸事件では日本はアメリカに強い態度がとれず、責任追及しないと確約して事件の決着を図った。賠償金としてでなく、好意による見舞金という形で当時破格の7億円が支払われた)
それでも「今度いらっしゃる時は、組織を作っていらっしゃい。バラバラでは力がないから」と知恵を授けてくれたという。
阿部さん達の尽力により1956年、被爆者の組織である「日本被団協」が結成
長崎での第二回原水爆禁止世界大会で、被団協は世界への挨拶とともに産声を上げた。
「今日まで黙って、うつむいて、分かれ分かれに生き残ってきた私たちが、もう黙っておれないで、手をつないで立ち上がろう」
当時、被爆者の心に積もった悲しみを表わし、団結を後押しした1編の詩があります。
「悲しみに苦しみに、笑いを遠く忘れた被災者の上に
午前十時の陽射しのような暖かい手を
生きていてよかったと、思い続けられるように」
阿部さんがしたためた詩です。
その阿部さん、昨年のノーベル賞受賞を受けて、
「闇夜に荒波に向かって叫ぶような思いで運動を続けてきた苦労が、やっと認められたような気がします」と語られています。
国への援護や核兵器廃絶を訴えてきた活動を回顧、
「原爆を受けて幸せになった者は1人もいない」

被爆という悲劇のなかでも、最も恐ろしいもの。
それが「偏見」や「差別」
心の傷は、一生消えることはありません。
そして、心の痛みを与えるような
「加害者」に決してなってはならないことも
胸に刻んでおきたい

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