沖縄戦の企画展を見学

『れいわ新選組』を知る
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広島県三原市立中央図書館の

「平和の企画展~広島から沖縄を考える」を見学してきました。

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ちなみに、三原は著者の生まれ故郷で7歳まで住んでいた町です。

当時、三原はすごく賑わっていたのです。

「三菱重工」「帝人」など大手企業の事業所・工場があり、小さいながらもとても活気があった町でした。

しかし、それらの企業が縮小・撤収した影響で、三原は徐々に衰退していったのです。

久しぶりに街を歩いてみましたが、空のビルやパーキングがやけに目に付いて、生まれ故郷への寂寥感を少し感じました。

 

さて、話を本題に戻します。

著者が沖縄戦の企画展が気になって、見学に出かけたきっかけ。

それは5月3日憲法記念日、沖縄シンポジウムでの「西田昌司」(自民党参議院)氏の発言。

沖縄戦で犠牲となった「ひめゆりの塔(糸満市)」の展示内容について

「展示内容がひどい。歴史の置き換えだ」

「日本軍がドンドン入ってきてひめゆり隊が死ぬことになり、アメリカが入ってきて沖縄が解放されたという文脈で書いてある。歴史を置き換えるとこういうことになってしまう」

こういった西田氏の発言に対して、非難が殺到。

当初は自分は間違っていないという姿勢をとるも、最終的には自身の発言を撤回、謝罪に追い込まれる事態となった。

西田氏は、自身のYouTubeチャンネルで「政治のお話」を語られてきた方で、自民党のなかにあって「積極財政」を主張する稀有な存在。著者もこれまで学ばせてもらってきたという想いがあります。

西田氏は、かねてより

「戦後、主権を失った占領下で施行された日本国憲法は、アメリカの強い関与を受けたものであり、有効性を議論すべき」

「日本人が祖先から受け継いだ歴史が置き換えられた」

このような主張をされておられました。

戦後の東京裁判の影響で「日本が悪で米国が善」という史観が存在したこと、アメリカによる言論封じがかつて行われたこと。

戦後の日本の歴史観に疑問を投げかけておられる人なのです。

今回の発言は、

「日本の侵略により戦争が始まり、米軍の反攻により戦争が終わって、沖縄は解放された」という、沖縄の地上戦の解釈がかなり無茶苦茶な教育になっている」

「悲しい選択を日本は強いられた」

この持論から生まれた言葉だったのです。

 

西田氏のこの考え自体について、じつは著者は

「きっとそうだったはず」といくらか納得を感じています。

間違いなく戦勝国アメリカの差配が、我が国の歴史観・教育に影響を及ぼしたであろうと。

西田氏の伝えたいことは分かるのですが、

今回の発言は、その持論が過剰な思い込みに繋がってしまったものであり、

事実誤認を含んだ表現となり、沖縄県民の気持ちを逆なでするような失言になってしまった。

それも間違いないことと感じています。

 

西田昌司氏は、今夏の参院選京都選挙区に出馬予定。

著者が以前記事にとりあげた、れいわ新選組の期待の新人

『西郷みなこ』氏との激しい選挙戦が注目を浴びているのです。

その西郷氏は、西田氏の発言を強く批判されています。

実は西郷さんはかなりの歴史通です。とくに「戦争という悲劇を繰り返してはならない」想いが並外れて強いことは、彼女のこれまでの活動を見るとよく分かります。

また、若い時から社会運動を行ってきたなかで、沖縄にも仲間が出来て連絡し合っていると伝えているように、沖縄への想いはかなり強いはずです。

「沖縄基地問題」に本気で声を挙げている唯一の党が、れいわ新選組。

沖縄出身「山川ひとし」議員の、魂の国会質疑をぜひご視聴ください)

西郷さんは、かつて沖縄に行き現地の声を聴くなど、沖縄戦史を学んできたと話しています。

「沖縄南部は今も遺体が埋まっており、誰がどこで亡くなったのか結局分からない形で終わっている」

沖縄戦については、

『沖縄を捨て石につかった日本軍』も『多くの県民を殺害した米軍』にも

どちらにも怒りの矛先を向けるべきと語られています。

そして、看護要員として動員された女学生が戦争末期、軍に見捨てられ戦火に放り出され、136名が犠牲になったという「ひめゆり学徒隊」

その慰霊碑である「ひめゆりの塔」の展示を

捏造だと言う政治家などありえないと、西田氏を強く非難しているのです。

 


このような二人の主張を受けて、

著者なりに自分の目で「沖縄戦を知り得たい」そんな想いから、

今日「平和の企画展~広島から沖縄を考える」を観てきたのです。

6月23日「沖縄の慰霊の日」を前に戦後80年に合わせ、地上戦で最後の激戦地となった沖縄県糸満市の図書館から、三原市の図書館に資料が提供されたのです。

(糸満市からのごあいさつ)の一部

「糸満市は米軍との地上戦により、多くの命が失われた場所です。住民も巻き込まれた戦いは凄惨を極めました。80年たった今なおこの地では不発弾の処理や犠牲者の遺骨収集が行われています」

「戦争を体験した人が少なくなっている現在、どのようにしてその惨状と平和への強い思いを語り継いでいくかが課題となっています。そしてこれは沖縄だけの問題ではないと思うのです。実際に体験していないからこそ、当時の悲惨な状況を知ること、なぜ戦争をしてはいかないかを学ぶ機会をたくさんの人が持つことが重要ではないでしょうか」

「広島と沖縄はともに悲惨な経験を持つ地域です。互いの地域について知ることで、改めて甚大な犠牲を昔話ではなく悲惨な歴史として学び、反戦と平和について考える機会となれば幸いです」

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(このパネルの記述の一部)

1945年5月、日本軍は約5万人の将兵が首里を放棄して本島南部の島尻地区に移動。米軍の猛攻のために多くの兵が途中で命を落とし、陣地についた兵士は約3万人に減っていたといわれている。この地域には多くの壕があり、避難民の壕として使われていた。
兵士たちは米軍の攻撃によって陣地を捨てざるを得なくなると、住民たちが使っている壕に押し寄せ、銃剣を突きつけて住民を追い出した。
投降を呼びかける米軍の声は聞こえても捕虜になることは許されておらず、追い詰められた住民は、海に身を投げるしかなかった

 

沖縄戦における沖縄県民の戦死率は何と4人に1人

いくら西田氏がかばい立てしようとも、日本政府と軍部が「沖縄を捨て石にした」ことは真実であり正当化できることではない、許されることではないと、著者は思います。

日本国民がちゃんと受け止めなければならず、戦争というものがどれだけ恐いものであるかを心に刻み、後世に語り継いでいくことが責務であると。

そして「まだまだ、沖縄戦の真実を知り得たい」

そう感じた一日でした。

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